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能登を荒廃した状態から蘇らせた春枝王

春枝王(はるえおう):能登守(生誕798年~死没856年)

(直接御祓地区と関係した人物ではないが、またこの世に現代の春枝王が出現しないかな、と願いを込めて掲載します。現在の七尾市長・茶谷氏は、こちらの副館長や総務広報部会の部会長などしていた方だが、頑張って春枝王のような業績上げてくれないかな。)

春枝王(はるえおう):(延暦17年(798年)〜死没:斉衡3年9月13日(856年10月15日)

  天武天皇の5代後の子孫。というか天武天皇の子・高市皇子(たけちのみこ)の玄孫(孫の孫)にあたる人物だ。
 最初,天長年間に嵯峨上皇に仕えるが、承和年間初頭に越後介(越後守に次ぐNo.2の地位)に任ぜられる。非常に治国の功績があり、承和10年(843年)、治国の功労により特別の叙位を受け従五位下に叙爵され、能登守に任ぜられる。とにかく非常に優秀な能吏であったらしい。

 能登はこの春枝王が能登守として、赴任するまで実は約1世紀もの間、困窮の状態が続いており人々は喘いでいた。
 養老2年(718年)能登は、一度越前国から、能登郡, 羽咋郡, 鳳至郡, 珠洲郡の4郡を分離して能登国を立国するも、天平13年(741年)能登の国が廃せられ越中国に合わせられます。天平宝字元年(757年)に能登のくにはまた同じ4郡で越中国から独立します。
 しかし再独立したと言っても、『続日本後記』という国編纂の歴史書には、能登が越中に併合された年(741年)に「能登国飢え、賑給す」と言う記録が出てくる状態でhした。
「賑給(しんごう/しんきゅう)とは、賑恤(しんじゅつ)とも呼ばれ、律令制において高齢者や病人、困窮者、その他鰥寡孤独(身寄りのない人々)に対して国家が稲穀や塩などの食料品や布や綿などの衣料品を支給する福祉制度、あるいは支給する行為そのものを指す。」(Wikipediaから引用)
  この賑給という言葉が、この後765年、774年、785年、835年と4回も登場します。
この春枝王が赴任した843年(承和10年)には「類年荒廃し百姓煩擾(はんじょう)す」という記述も出てきます。 
「繁盛」ならいいんですが、ほぼ反対の状況の「煩擾」で、煩わしいほど乱れること、ゴタゴタに乱れる状況です。天災, 飢饉, 疫病などが何度も起こり、それこそ荒廃した瀕死のような状況だったのではないでしょうか。

能登国分寺跡


 そこに救世主のごとく赴任したのが春枝王なのです。
 能登が越中国に併合された年(741年)聖武天皇による国分僧寺と国分尼寺の詔が出されました。能登は757年に再独立しますが、それからもなかなか国分寺は建てられずにいました。
 春枝王は、承和10年(843年)の1月に赴任してますが、12月には能登国分寺が出来ます。出来たといっても元々あった大興寺という能登臣の氏寺が、それより前に定額寺(官大寺・国分寺・国分尼寺に次ぐ格式の寺院)に指定されていたのを、さらに昇格させ国分寺としました。国分寺の詔が出されてから100年以上経過して、ようやく出来た訳です。ただし国分寺とするにあたっては塔や堂を新たに建てたり一部建物を広げたりしています(最終的には法起(ほっき)寺式伽藍の寺院に整備された)。
 建設が困難な事業を既にある建物を今でいうならリフォームし有効利用する当たり、確かに有能な官吏の片鱗が見えます。
 ただ残念なことにこの能登国分寺は元慶(がんぎょう)2年(883年)には、風雷により大きく破損した言葉が記録に残ってます。
 春枝王ですが、『日本文徳天皇実録』斉衡3年9月13日条によると、相手を敬って自分を控えめにする性格で、神仏を篤く崇拝したことが書かれてます。有能な官吏ですが、謙虚だったんですね。

現在、中能登町の春木には春枝王が少毘古命(スクナヒコノミコト)を崇敬し建てたといわれる天神社(中能登町春木フ甲17)が鎮守してます。(写真の下に文章続く)

能登は、春枝王の任期3年が終わる頃には、ようやく荒廃から復興し、人心も安心を得たということが書かれてます。たったの3年で能登を蘇らせた訳です。
 同寺での安居の講の際には春枝王自らが参加し、梵唄の声が昼夜休むことなく続いたという記録も残ってます。

 この後、春枝王は、文徳朝では、中務少輔・正親正を歴任し、仁寿4年(854年)には従五位上に叙せられてます。斉衡2年(855年)下総守に任ぜられるも、病と称して赴任せずに隠居して療養したが、これまでの功労により、諸節禄や位禄などについて、官職に就いているのに準じて与えられたといいます。
 具体的な治績は詳しい記録は残っていないので、分かりませんが、短期間で鮮やかに素晴らしい業績を残して颯爽と去っていった事が分かります。
  個人的感想ですが、昔NHK大河ドラマの『花神』のオープニングのナレーションを思い出しました。あの大河は幕末の大村益次郎(村田蔵六)を主人公としたドラマで、司馬遼太郎が、大村益次郎をたとえ、幕末に颯爽と現れて自分の役割を果たしたら、また颯爽と去ってゆく中国の伝承上の「花神」、日本でいえば花咲か爺さん、のようだと語る箇所です。
 春枝王は、古代の能登の人にとっては、まさに花神であったのではないでしょうか。

余談(追記)

『石川縣鹿島郡誌』後編第16章鳥屋村の天神社の記述によれば、中能登町春木の春木の地名は、春枝王に由来するらしい。彼が居を定め住んだのもこの辺りらしい。 その辺りの事情が書かれた「天神社」の記述をここに転載する。

◯天神社(大字春木フノ部十七番地鎮座)には
「當社は村社にして、少那比古那命を祀る。
社傅によれば春木の名稱は承和年間春枝王當国主となりて居をこの處に定めしより羽坂を分割して春枝となせしに創まると其産土神たる天神社は蓋(けだ)し国主崇敬驚かりしものなるべしと。
合祀社白山社は菊理姫命を祀り天神社に合祀せるものなり。
合祀若宮八幡社は應神天皇、神功皇后及び比賣命を祀り天神社に合併せるものなり。
合併御前社は木花咲耶姫命を祀り天神社に合祀せられしものなり」とある。<出典・参考:石川県鹿島郡誌 後編431頁~432頁)>



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