御祓地区出身の文化人 ~田中太郎~
- 歴史・文化・景観
- 2021年11月2日
彫刻家(1911~92)
明治44年11月6日、七尾市木町に生まれる。幼い時から絵を描くのが大好きで将来は画家になりたいと夢見たという。大正15年(1926)七尾男児尋常小学校を卒業後、太郎に欄間彫刻の技術を身につけさせえようと、彼の父は友人の装飾欄間・高畠明雲師に太郎を入門させました。
弟子入りして5年目に、師匠の下絵通りの木彫り作業に物足り無さを感じてきた彼は、師匠の家に置いてあった『画家名鑑』を盗み見し、そこに平櫛田中(日本美術院展・同人)という作家を見つけ、この方の弟子になろうと決めたそうです。
彼は平櫛田中氏がいた東京に上京し、弟子にしてくれえるようお願いしたが、なかなか承諾を得られませんでした。それでも何とか認めてもらいたいと1月かけて仁王像を仕上げて見てもらい、漸く弟子にしてもらったそうです(23歳の時)。
平櫛田中師匠からは、太郎の力量から考えると5年程度は辛抱して頑張らねば一人前になれないと言われていましたが、彼は一生懸命努力したお陰で、弟子入り後2年目(昭和11年(1936))に「日本美術院展」という美術展に「鳥」という作品を出品して初入賞を果たします。日本美術院展というのは、岡倉天心が中心となって明治31年(1898)に日本の美術団体として結成された団体で日本の美術を代表する展覧会です。
昭和27年(1952)には、法隆寺金堂復元に従事します。修建責任者であり院展の重鎮でもあった石井鶴三の求めにより応じたもので、雲肘木(くもひじき)や雲斗(くもと)の復元製作修理に参加するなど、その実力は高く評価されました。
昭和28年11月3日には彼は「七尾市文化賞」を受賞しました。
順は前後しますが、他の主な受賞歴など披露すると、昭和18年には「母の像」で第30回美術院展院友に、昭和24年「蛍の光」で第34回日本美術院賞白寿賞、昭和25年「三面相」で第35回日本美術院展奨励賞、昭和26年「母子」で第36回日本美術院賞白寿賞、昭和29年「K嬢像」で第39回日本美術院賞大観賞、と毎年のように受賞し、昭和30年「鏡を持つ少女」で第40回日本美術院展の「同人」(院内の序列最高位)に選らばれました。「同人」になるということは、日本美術院院展の審査員になるということであり、同人作家は特別の理由が無い限り、毎回作品を出さないといけない大変な役でもありました。
そこで彼は七尾での作家活動では不便だと、昭和33年(1958)の47歳の時に、東京隣県の千葉県我孫子市に引っ越しし、以後はそちらで作家活動を行いました。
平成元年(1989)に七尾市は、田中太郎氏(当時78歳)に長谷川等伯像の製作を依頼しました。現在JR七尾駅向かい側のミナクル前に立つ像がそれです。「青雲の像」と命名され、翌年完成しています。33歳で妻や長男久蔵を連れて京都に向かう時の等伯の気持ちに思いを馳せて製作したそうです。
田中太郎氏は、平成4年(1992)3月30日80歳で亡くなりました。
田中太郎氏の作品と遺品は石川県七尾美術館には百数点寄贈されており、企画展などで折々私たちは見る事ができます。
他、主な事項
昭和34年 東京芸大に「ないしょ話」を寄贈
昭和39年 紺綬褒章 木杯賜る
昭和58年 石川県立美術館に買い上げ・寄贈
昭和60年 国際芸術文化賞 太平洋美術会会員
昭和63年 七尾産業福祉センターで個展
(参 考)「ふるさと人物伝2 七尾の礎を築いた人々」(七尾市教育委員会・2013.3)他
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