前田五郎兵衛安勝 – 七尾城代
- 歴史・文化・景観
- 2021年10月3日
(前田利家の三兄一つ上の兄・生誕不詳~文禄3年(1594))
天正9年(1581)前田利家は能登に入部したあと、山頂にある七尾城は居城として使う事なく、港にも近くて交易に便利な今の小丸山城址公園のところに小丸山城(七尾城とも読んだ)を築いたことは、七尾の皆さんならご存知かと思います。
とはいえ利家は、越中に上杉謙信が在地の新保氏とくみ侵攻してきたので、そちらの応戦で七尾にいる暇は殆どありませんでした。新保氏は元々織田方でしたが上杉方に寝返ったのです。
利家が越中転戦で七尾に不在の間、七尾にあって留守居し、能登の領国全体を預かって守ったのは、利家の上から三番目の兄、前田五郎兵衛安勝です。
安勝は、小丸山に在って築城工事を督励する傍ら、利家の兵站を担当しました。
彼は大の酒飲み好きで、余談ですが確かNHK大河ドラマ『利家とまつ』では、山西惇さんが演じておりました。
利家が能登入部前の越前にいて府中三人衆の一人に数えられていた頃に、彼は弟である利家の家臣となり仕えました。一般には殆ど知られていない人物ですが、利家は安勝に信を置き頼りにしていたようです。
利家は、安勝を補佐し新たな所領行政を担う者として、三輪藤兵衛吉宗と大井久兵衛直泰(ただやす)を就けます。石動山山系上の七尾城を居城としては不便と考え、交易に便利な海沿いの小丸山城(七尾城とも呼んだ・当初は七尾城と呼んでいた資料の方が多く散見する)を居城と定めますが、越中方面の上杉景勝軍の侵攻が激しくなると、利家不在の期間が非常に長くなりました。そこで七尾城代として彼安勝が、その留守中 三輪・大井の両者を指揮し、七尾(所口)町の町政を行わせ、町割りに基づく城下町の整備に励みました。(後に三輪氏と大井氏は二人で初代の所口町奉行として、その後長く活躍しました)
小丸山城を築いた天正10年(1582)に、あの本能寺の変が起こりますが、利家が、本能寺の変〜賤ヶ岳の合戦(天正11年)秀吉への降伏〜秀吉とともに柴田勝家を北ノ庄城(後の福井城)で降す〜秀吉から石川郡・河北郡の二郡を新たに与えられる〜能登・加賀統治に便利な金沢に居城を移す(天正12年)、と目まぐるしく動き周った間も、安勝は小丸山城をしっかり城代として守り務めます。
金沢へ居城を移した後、利家に替わって、小丸山に在城し、能登を支配したのは、やはり利家の兄・前田安勝でした。利家が領国を離れると、安勝は金沢城の留守居もしたりしました。
また天正12年(1584)の佐々成政の能登侵攻に際しては、佐々軍の拠る勝山城(現鹿島町芹川)を子の前田利好(としよし)と共に攻略し、 末森の合戦の勝利に貢献しています。
彼は文禄3年(1594)5月に病没します。大の酒好きらしく亡くなった場所も酒蔵だそうです。山の寺寺院群の七尾長齢寺に葬られました。
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