御祓地区ゆかりの文化人 ~嶺藤 亮~
- 歴史・文化・景観
- 2021年7月31日
東本願寺を改革した男・嶺藤亮(みねふじ・りょう 1914~1990)
大正3年9月15日生まれ。法名は慎観。
旧制七尾中学(現・七尾高校)を経て、昭和14年大谷大学卒業。
ちなみに得度したのは中学5年の時という。
嶺藤氏は、大谷大学に入る前後から、安田理深(真宗大谷派僧侶・仏教哲学者)の講義を聞く機縁があり、曽我量深(仏教思想家・大谷大学学長など務めた)の講座にも連なったりした。その頃は、曽我量深氏や金子大栄先生が、〝異安心問題〟により宗派内から「宗義に反する」と批判され大谷大学教授を辞めさせられ在野にいた。安田理深、曽我量深のいずれも清沢満之(1863年 – 1903年、明治期に活躍した真宗大谷派の僧侶、哲学者・宗教家)の教学の体系をもっていた。その二人に強い影響を受けたようだ。
戦時中は浜松、福島などで整備将校として飛行隊に所属した。
戦後復員すると、七尾教務所にあった大谷学場で、教区における研究集会や講習会の世話役などといった手伝いの仕事をする。
昭和28年、自坊改観寺の第28代の住職となる。
昭和33年1月、真宗大谷派能登教務区選出の宗議会議員(任期4年)になる。
昭和37年から昭和44年にかけ、第1次・第2次訓覇信雄(くるべ・のぶお)、蓑輪英章の各内局の参務を、3期6年近く務めた。
参務になった昭和37年6月に第70回宗議会で、同朋(どうほう)会運動を発足させる。これは宗門のあるべき姿を確立するため、教学、教化の運動を推進しようというものであった。
昭和33参務就任以降、宗務会野党直道会(真宗興法議員団の前身)幹事長を経て、昭和44年2月には、宗務総長の指名を受け、同年4月第一次嶺藤内局を発足させた。
ところで浄土真宗東本願寺派は、末寺1万、門徒数1千万を擁する日本最大級の宗教教団である。
昭和53年1月その教団の宗務総長に再任され、昭和56年6月18日、任期半ばで辞任した。
真宗〝大谷派紛争〟の最も困難な時期に渦中にあって、内局、つまり宗門内閣を指揮してきた人物である。
この間、一連の東本願寺の財産処分をめぐり、大谷光暢法主らを京都地方検察局に告訴するなど、同朋会運動を軸とする宗門改革派の中軸として〝法主絶対制〟を守ろうとする大谷家・保守派に対し厳しい姿勢で臨んだ。
「布教は真宗の生命線である」と言い続けた、求道と布教の激しいその一生は、多くの人材を育み、その精神を後世に遺した。
宗務総長在任の頃、人から〝石頭〟〝頑固〟と呼ばれた。能登人特有の粘性であの紛争期において6年もの長きにわたり宗務総長を務めた。
まだ宗門の紛争が続いていた中、自ら辞任を表明し辞めた理由は「人心の一新により解決への展望を開く」であった。
【参 考】
『わが炎の信念と行-嶺藤亮 聞きがたり』(北國新聞 昭和55年8月-56年4月)
『図説 七尾の歴史と文化』(七尾市発行・七尾市市史編纂専門委員会編集・平成11年7月20日発行)