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能登侍従利政(1578-1633)-2/2

 その後徳川家康の檄至りましたが、兄利長の再度の出兵命令には応ぜず、関ヶ原の戦いの後、利政は所領を没収されることとなりました。彼が中立を守った理由は、夫人(藉)(蒲生氏郷の娘)が、当時大阪方にあって石田・毛利方の人質にされたということ、母を徳川へ人質とした利長への反発、徳川敗北の際に備えた等、諸説があります。

 封を失った彼は、夫人と京都に上った後も、母や家臣との音信は続き、兄の病状を気遣いました。利長没後の大坂の陣でも中立を守っていました。冬の陣(1614)の時、豊臣秀頼は加賀・越前2国をかけて利政を誘うたがあえて応じなかったから家康はこれを嘉し、10万石を与えて仕えさせようとしたが、それも辞退したのでした(理由は利政本人が後に、関東に対する忠節のためでなく、豊臣方を指揮ずる大野治長の指揮に従いたくはなかった由を述べている)。

 しかし、金沢城の留守居役三輪吉宗と密接に連絡を取り合っていたようです。やがて京都嵯峨に移り隠棲し剃髪しました。宗悦や宗西と号して、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)や角倉素庵(すみくらそあん)らと交わりました。寛永10年(1633)56歳で没しました。法号は福昌院怡伯宗悦居士で、大徳寺塔頭芳春院に葬られました。七尾市の霊泉寺も利政の菩提寺といいます。なお彼の嫡子直之(なおゆく)は、後に叔父利常に仕え、1万5000石で、人持組頭となり、八家筆頭の前田家土佐守家の祖となりました。

(参考図書)

「(図説)七尾の歴史文化」(七尾市)、「石川県大百科事典」(北國新聞社)

「加能郷土辞彙」(日置謙編・金沢文化協会出版)

「ふるさと人物伝:愛蔵版」(北国新聞社)、Wikipediaの前田利政の項目など

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