気多本宮縁起
- 歴史・文化・景観
- 2022年4月4日
~大鷲・大蛇退治、創建の由来、所口の名の由来など~
今回は本来4月第2土日(今年なら4月9日,10日)に、ちょんこ山祭りが行われる予定だったが、今年もコロナ禍のため中止(3年連続中止)となったので、ちょんこ山祭り(正式には「気多本宮曳山奉幣祭」)の由来でもある気多本宮縁起の、神社が出来た謂れやその中に出てくる伝説(大鷲退治と大蛇(毒蛇)退治)など書かれた前半部の紹介をすることにした。
能登国能登郡(当時は鹿島郡ではなく能登郡といった)気多本宮は延喜式神名帳にいわゆる能登生国玉比古神社と伝称するものである。
大昔、大己貴命(=大国主命)が、出雲より因幡の国の気多崎(白兎伝説で有名な海岸)に至るルートで八上比咩のもとに通いなさっていたが、そこから鹿・亀の二霊に乗って、当国当所(能登国七尾)に渡って来られた。(上陸地は)今の府中の浦にあたる。
この時、老翁夫婦が出迎えて、菓餅の二品を柏の葉に盛って饗応した。そのうち一品は野老、一品は焼付けた餅であった。
老翁が言うには、「私はこの地に住まうこと久しい。大己貴命よ、永くこの地に留まって(能登の)国土と人民を護ってくだされ」と。命は「わかった」と返事して(一旦)去って行かれた。
伝説では、この老翁夫婦は、素戔嗚と稲田姫の二神である云々とある。その後いろいろあって、ある時、この国に大鷲が栖みつき住民を殺して、家畜を損傷させた。大己貴命は鳳鳥に乗って速やかに現われ、これを退治された。
これによってこの国の生きとし生けるものは皆命の恩徳を受けることになった。
霊験灼かだということで、孝元天皇の御代に、神社を建て、春秋の祭祀を厳重に執り行うようになった。
当社を、能登の生国玉と呼ぶのは、仰ぎ見て尊崇すべき者であるところから由来し、また気多と呼ぶのは、命が気多崎から影向(=来臨)された事に由来する名である。
本社に鎮座する神は三柱で、中央は大己貴命、左右は素戔嗚命と稲田姫命の両尊神である。
先の大鷲退治で大己貴命がおおとり鳳鳥に乗って至った地を今はふげし鳳至と呼び、また鷲を退治なされた所を鷲嶺(鷲嶽八幡神社と呼ばれたこともある。
櫟原北代比古神社の地・輪島市深見町と思われる)といい、(大鷲を)蔵して治したところ(退治し埋めた所)を重蔵宮(鷲蔵宮)と称号し、大己貴命を奉崇。
文明18年(1485)の重蔵宮の社記にも気多本宮より分祀された神であるという記述が見える。
第10代崇神天皇の御代に、能登鹿島路の湖水(現・邑知潟)に毒蛇が棲み、住民らを殺害し、人々の行き来を絶った。
この時大己貴命は当社(気多本宮)よりその地に赴きなされ、その毒蛇を退治し、遂に羽咋郡竹津浦に垂跡神として現われになった。
今の一の宮(気多神社・気多大社)がこれである。故に当社(能登生国玉比古神社)を以て本宮と称し奉るのである。
気多神社は、当社に御鎮座してから百年余り後の御垂跡の地である。
そもそも抑当社の尊神は、諸々の地祇(地の神。国土の神。国つ神。)の統領として国土の地主にておわす。故に大国主神とも大物主神とも大国玉神とも顕国玉神とも申す。
国家を経営なさることから、国作大己貴命と申すこともある。さらに憤怒の形相を現して邪神を降伏し、(それら悪い因縁との関係を)解き除いてくれる。故に葦原醜男といい、八千戈神とも申され奉られている。
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