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二人の初代所口奉行 - 1/2

三輪藤兵衛吉宗(みわとうべいよしむね)と大井久兵衛直泰(おおいきゅうべいなおやす)

 所口町(七尾町)奉行は、歴代で50人近くの奉行名が数えられるが、二人で務めていた時期は、奉行所による行政が始まった最初の時期のみである。その初代の二人が、三輪藤兵衛吉宗と大井久兵衛直泰だ。重要な職務を担った二人であるが、二人とも前田利家の家臣となったのは、それほど早い時期ではなく、織田家家中にあって北陸方面を担当した柴田勝家の与力として前田利家が越前府中一帯の統治を、不破光治、佐々成正との三人で行っていた時代である。

 まず三輪藤兵衛吉宗であるが、元々は大和(奈良県)出身の人であったが、始め越前朝倉氏に仕えていた。では朝倉義景を当主とする朝倉家が滅ぼされて(天正元年(1573)9月)からすぐ、織田家の家臣になった訳ではなったかというと、そうでもないようだ。この越前の地で朝倉氏が戦国大名として頭角を現してきたのも浄土真宗門徒である一向宗の勢力との争いの中で実力をつけてきた訳であった。朝倉氏が滅ぼされると、越前において一向一揆勢が勢いを盛り返し再度攻勢をかけだしている。

 浄土真宗総本山の本願寺で家政を担当する坊官を務めてきた一族に下間(しもつま)氏というのがある。この一向一揆が盛んな時期に一族の何人もの者が軍事面の指導者となっている。その中で越前における一向一揆の総大将として派遣された下間頼照(しもつまらいしょう)は天正2年(1574)9月に、朝倉氏滅亡後三輪藤兵衛に、朝倉氏旧臣三輪藤兵衛の知行分を「義景御時の如く」安堵する、との旨の手紙を送っている(『松雲公採集遺編類纂』)。

 その前に三輪藤兵衛側から一向一揆側へ帰属の打診があったかどうかは不明だが、要は一向一揆側から三輪藤兵衛を味方に引き入れようとのオファーがあったということであろう。彼が一向一揆側に靡(なび)いた時期もあるのか、その辺は調査不足で不明だが、最終的には天正5年(1577)に前田利家の家臣となったようだ。

 一方、大井久兵衛直泰は、朝倉家の家臣ではないが、室町期より越前国丹生郡大井村に土着していた若狭大井郡の本郷氏の庶子家大井氏である。前田利家がこの地を支配した際に従ったと考えられる。『加賀市史料』によると大井氏の遠祖が信州佐久郡大井の地を領していた事から大井姓を名乗ったとのこと。ただし久兵衛の父の代には既に越前府中に居住していたようだ。

 つまり繰り返すが、三輪藤兵衛も大井久兵衛も、前田利家が府中三人衆の一人として府中の近辺の一画を統治していた時代に家臣になったのである。三輪藤兵衛に関しては、当初の禄高は70石だった事も記録に残っている。

 前田利家が能登から上杉景勝軍を撃退すると、彼は天正9年(1581)8月17日織田信長から能登一国四郡を与えられるが、それを受けての能登入部に際し、利家の信頼厚い三輪藤兵衛吉宗と大井久兵衛直泰と今井彦右衛門佐七(今井氏に間しては資料調査不足により詳細不明)の3人が所口に着任する。

 小丸山城の築城は天正10年(1582)正月から開始していますが、この時期は前田勢が能登から上杉勢を駆逐するも、越中では(元織田方の神保氏が)上杉景勝と手を結び叛旗を翻したので、上杉勢との戦いがまだ続いており、主君の利家は軍勢を率いて留守にすることが多かった。そのため、利家の三兄の安勝も小丸山に在って、築城や城下町の町割りなどを督励する傍ら、安勝と三輪、大井、今井の3人ら留守居組は利家への兵站も担当した。また上杉家家臣の長景連が能登棚木城(宇出津)を占拠すると、これを攻撃して滅ぼしたりもした。

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