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古都七尾の歴史を感じる旧町名の散策~城下町七尾 旧町名巡り~

小丸山城址公園 利家とまつ
江戸時代には能登国の政治・経済・文化の中心地として栄えた港町七尾。
その名残を今に伝える旧町名が数多く残っています。前田利家が築いた七尾の城で、現在は公園として整備されている小丸山城址公園。城周辺には、所口町奉行所や年貢米を保管していた御収納御蔵(現在の七尾簡易裁判所)が置かれ、城に通じる小路には小代官や鉄砲足軽などの下級武士の屋敷が並んでいました。明治時代に2度の大火に見舞われてきた七尾の町には武家屋敷こそ残っていませんが、今でも小代官町通りや鉄砲町通り、愛宕山などの名称を残し、基盤の目を配したような町並みは江戸時代の名残を知ることができます。
※明治28年(1895)4月に三島町より出火し御祓川西側の約1,000戸を焼失した“西の大火”
明治38年(1905)11月に府中町より出火し689戸を焼失した“七尾大火”

※金沢みなと未来館 所口町絵図(リンク)

【小代官町通り(こだいかんまちどおり)】
小代官町通りは、小丸山城の大手道につながる小路で、小代官たちの住居が並んでいたことからこの名称が残っています。小代官は、江戸時代に所口町奉行の配下として能登の地方支配の実務役を担った下級武士で、年貢米の計量や新開地の検地などの税業務、破損船の確認作業や流刑人の付き添い人、火災発生時の出動、盗賊改方御用(とうぞくあらためかたごよう)などの治安業務といった能登における徴税・治安の重要な実務を担っていました。天明3年(1783)の能登各所に居住する小代官は、所口(七尾)に6名、輪島(輪島市)に3名、飯田(珠洲市)・中居(穴水町)・宇出津(能登町)に各1名の合計12名が配置されていたそうです。

小丸山城 天明5年(1785年)

【鉄砲町通り(てっぽうまちどおり)】

この通り名は、江戸時代に鉄砲足軽が数名居住していたことに由来する。江戸時代の足軽は武士の最下層の身分で、所口町奉行や小代官の補佐役として警察業務から行政事務まで多岐にわたる業務に携わっていた。

江戸末期には外国船の来航による海防政策が重要課題となり、足軽は戦闘員としての役割を求められるようになった。

天保10年(1839)には七尾で角場(射撃場)が設置され、本格的に足軽の鉄砲稽古が始まった。
 鉄砲稽古に加えて西洋流火術なども取り入れられ、砲術の流派を学んだ足軽たちを鉄砲足軽と呼ぶようになり通り名につながった。

【馬出町(うまだしまち)】

馬出は、地元で「またし」と称されている。古くは通りの名称だったが、昭和25年(1950)に周辺町域の境界変更が行われて町となった。この七尾簡易裁判所前の通りは、元和2年(1616)の絵図に「御馬出」と記されている。その後の絵図には「藤橋村字馬出」と記され、この周辺が藤橋村であったと分かる。

 小丸山城周辺には、所口町奉行所や年貢米を保管していた御収納御蔵(現在の七尾簡易裁判所)が置かれ、城に通じる小路には小代官や鉄砲足軽などの下級武士の屋敷が並んでいた。

明治時期に2度の大火に見舞われてきた七尾の町には武家屋敷こそ残っていないが、今でも小代官町通りや鉄砲町通り、愛宕山などの名称を残し、基盤の目を配したような町並みは江戸時代の名残を知ることができる。
※(鹿島郡役所と鹿島郡公会堂)
旧七尾市が市制を敷くまで、市域は鹿島郡に属し、郡役所で業務が行われていた。
《郡役所・郡公会堂の変遷》
明治12年(1879) 西光さいこう寺(小島町)に置かれる。
明治19年(1886) 馬出町に遷る。
明治24年(1891) 郡制が敷かれ、郡議会が開かれる。
明治25年(1892) このころ鹿島郡公会堂が小丸山の愛宕山に建設される。
明治29年(1896) 明治28年の大火で一時期長福寺(今町)に移転したが、馬出(現在の花嫁のれん館の場所)で新築する。
明治40年(1907) 明治38年の大火で再び消失して長福寺へ移転し、再度新築する。
明治42年(1909) 東宮殿下(後の大正天皇)行啓を記念して、明治28年の大火で焼失した鹿島郡公会堂が新築される。
大正13 年(1924) 郡制が廃止され、郡自治会に移譲される。
【参照・七尾検定参考書】
https://www.city.nanao.lg.jp/sportsbunka/aramashi/kaichojikan/kyoikuinkai/shishihensan.html

【生駒町(いこまちょう)】

江戸時代には、豆腐町という町名だった。元和2年(1616)の所口境絵図にその町名が既に記されている。

この町名は御祓川西岸に位置し、江戸時代には多くの廻船問屋が建ち並び、七尾湾沖に停泊する廻船と店との間を艀(はしけ)と呼ばれる小舟が行き来して荷物の揚げ降ろしが行われ、御祓川が運河の役割を果たした。
 廻船問屋には、塩屋清五郎や越中屋喜兵衛などの所口(七尾)を代表する商人が店を構えていた。

豆腐町(現在の生駒町)
江戸時代の生駒町は、豆腐町と呼ばれていました。町屋が川まで迫っており、当時、最も裕福な商人達が店、屋敷を並べ、その藏の並ぶ様が、豆腐の様に見えたようです。
しかし、終戦の直前に避難路として道ができ、御祓川沿いは現在の風景となりました。
※御祓川 流路延長・市内延長とも6.5km。七尾駅から能登食祭市場までの通りに沿って流れる。支流に、鷹合川・砂田川・笠師川(八幡町)・桜川放水路がある。

一本杉町(いっぽんすぎまち)
一本杉町は、地元で「いっぽんすぎどおり」と呼ばれる通りで、その由来や成立について不明な点が多い町です。記録には元和2年(1616)の所口境絵図に「一本杉どをり」と記され、少なくとも400年以上も前からこの名称があったことがわかります。この通りは、七尾の町を貫通し奥能登の内浦にまっすぐ繋がる街道(内浦街道)であり交通の要衝として栄えました。

城下町の街路、縦町、横町
 縦町は、城の大手門に向かう大手筋が城下を貫く主要な街道筋や目抜き通りとなる場合です。縦町(または、竪町、立町)とは、町屋敷や武家屋敷の表口が連なる主要な通りとなる場合が多いです。
 横町は、大手筋と主要な道筋が交差する場合に、城を正面にして横に伸びる街路。
 一般的に戦国期から近世にかけて、城下町プランの主流は、領主の権力をアピールする縦町型から、経済的ネットワークを重視した横町型へと変化したと言われています。七尾も城下町から一国一城による小丸山城の廃城にともない、港町として横長に広がっていったことが想像されます。
※城下町金沢学術研究1


 御祓川の東側地区は職人が多く住む町に対し、西側に位置する一本杉通りは商人が多く住んだ町として知られ、明治の銀行業が始まった頃には多くの銀行が一本杉通りに店を構えていた。現在は、第十二国立銀行(明治20年8月第十二国立銀行七尾支店・現北陸銀行七尾支店)として営業などの歴史的建造物が残っており、当時の繁栄をしのぶことができます。

※明治22年(1889) 町村制の実施によって、28町(湊町一・湊町二・川原・鍛冶・塗師・作事・橘・今・相生・府中・大手・桧物・亀山・一本杉・生駒・米・木・阿良・魚・白銀・三島・常盤・松本・富岡・府中村の一部・藤橋村の一部・所口村の一部・小島村の一部)が統合されて七尾町ななおまちが誕生した。

【魚町(うおまち)】

 魚町は、地元で「ようまち」と称されている。神社の由緒によれば、天正9年(1581)に能登一国を織田信長から与えられた前田利家は、山岳城の七尾城から城を湊に近い小丸山の大地に築き、七尾湾を拠点とした港湾都市を形成した。そのときの魚町の南側で小丸山の一角「愛宕山(あたごやま)」の地に所在した能登生國玉比古神社を明神野(めじの)(現在の七尾市所口町)へ移したと記されている。

 利家は天正14年(1586)7月4日付の書状で、魚町以外で魚物の売買を禁止する独占権を与えており、その特権的地位を得て町が繁栄してきた。

江戸時代を通して魚町浜には海産物を扱う魚問屋が立ち並び、鰤(ぶり)や鱈(たら)などの生魚に加え、四十物と呼ばれる魚の加工品の売買も盛んで町の主要産業となった。

名刹 木越山・光徳寺(浄土真宗本願寺派)

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