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能登侍従利政(1578-1633)-1/2

利長の実弟でありながら、関ヶ原の戦いで東軍の檄に従わず中立し、能登の領国を没収されながらも、子孫が主家前田家に仕え、加賀八家筆頭前田土佐守家の祖となった人物

 前田利政は天正6年(1578)、利家の次男(母は芳春院)として尾張荒子(あらこ)(現名古屋市中川区)で誕生しました。この年42歳の利家は、越前国府中(現福井県武生市)3万3千石余りの大名であり、母のまつ(芳春院(ほうしゅいん))は32歳、利長は16歳上の同母兄である。利政は、幼名は又若丸といい、天正12年(1584)の末森の合戦の直前、越中の佐々成政が養子に迎える話しも出ていました。のち利長の継嗣(けいし)となり、利長が名乗っていた孫四郎を譲られます。文禄2年(1593)9月、豊臣秀吉に能登国21万石の領有を許され、ついで従四位下(じゅうしいのげ)・侍従(じじゅう)に任ぜられて能登侍従と称しました。

 16歳のこの年、蒲生氏郷(がもううじさと)の女籍(むすめせき)を娶りました。同4年(1595)頃から、能登に関わる文書が現れますが、実権は利家が握っていました。

 豊臣秀吉の傳役(もりやく)であった利家は、秀吉の死後、慶長4年(1599)大坂城に入りました。利長は父の補佐役、利政は秀頼護衛の詰番衆(つめばんしゅう)として、共に父に同行しましたが、同年閏3月の父の死で、兄弟の進路は大きく分かれていきました。

 利政は慶長2年(1597)小丸山城に入ったと伝えられますが、確証はありません。しかし父の隠居領(養老封)から能登口郡1万5千石を分与され、22万5千石の領主となったことは確かなようです。長連龍(ちょうつらたつ)・高山右近重出(たかやまうこんジュスト)・村井長次(むらいながつぐ)、不破広綱(ふわひろつな)等が利政を補佐しました。

 同5年(1600)石田三成が挙兵すると、利長は東軍側につき、徳川家康の指示で兵を西に向けました。西軍の大谷刑部の調略は非常に巧妙で、北陸方面では関ヶ原の戦いが始まる前に、前田家の領地より南の加賀南部や越前は全て西軍方となっていました。

 利政も兄利長の副として能登の兵を率いて加わり、石田方の大聖寺城主・山口宗永を討ち、反転して小松城主丹羽長重(にわながしげ)と浅井畷に戦いました。

 なお前田利長・利政の軍が小松城をおとした後、すぐ主戦場の近畿の方に向かわなかったのは、西軍の大谷吉継が前田軍に対して、「上杉景勝が越後を制圧して加賀をうかがっている」・「西軍が伏見城を落とした」・「西軍が上方を全て制圧した」・「大谷吉継が越前北部に援軍に向かっている」・「大谷吉継の別働隊が、金沢城を急襲するために海路を北上している」など、虚虚実実の流言を流す等の諜報活動をし、この流言に前田利長は惑わされ動揺し本拠地金沢に一旦戻ったといわれている。

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