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源順(みなもとのしたごう)(911~983) -2/2

平安中期の貴族・歌人・学者あり、能登守で生涯を終えた人物はどのような人であったか?

 無役という不遇で苦悩の日々が続いた天延2年(974)従五位上に叙せられたが、それに見合った官職はつけず、天元3年(980)春、能登守を命じられたのである。源順は70歳であった。

 大伴家持が能登に来た頃は、まだ働きざかりの29歳だった。能登という国はなく、越中という国に含まれていたため、大伴家持が能登を訪れたのは巡見と都へ送る物資の督促の為に来たのであった。若かったから広く領内を巡行しては歌を詠んだりする余裕もあった。源順の場合は、齢も70歳の国守であり、家持のような領内巡行も困難であっただろう。よって彼が能登で詠んだ歌は作る気力もなかったのか殆ど遺ってない。

 そして彼は、永観元年(983)在任中、能登国府の地にて没したのである。

 そののち、江戸時代は明暦3年(1657)、黄門様こと水戸光圀は、『大日本史』を編纂するように命じ(たが、明治39年(1906)に完成したその著書によると、「橘正通は順(したごう)の高弟たり。順将(まさ)に死せんとす。その集を以て之に授けずして、為憲に属す。」とある。

 源順が没したとき、弟子たちが七尾でその臨終を見守った可能性は低いとおもわれるので、これは順が死ぬ間際に、高弟の橘正通をさしおいて、『口遊』の著者である源為憲に『源順集』の編修を依頼したということと思われる。

 それでは、ここからは源順の業績をあらためて見てみよう。

(1)勅撰集に収められている歌からみてみると、源順の歌で勅撰集に撰ばれた歌数は、50首前後である(資料によりバラつきがある)。厳密に言うと『拾遺和歌集』秋歌171と雑秋歌113が重複しており、また『金葉和歌集』春歌10が『拾遺和歌集』春歌6と重なっているので、それでいくと47首ということになる。

これらの内訳を勅撰二十一代集の成立順によって示すと次ぎの通りである。

勅撰二十一代集の中の源順に収められている歌の数

1.古今和歌集  なし      8.新古今和歌集          2首      15.続千載和歌集         1首

2.後撰和歌集  なし      9.新勅撰和歌集          なし      16.続後拾遺和歌集      1首

3.拾遺和歌集  25首    10.続後撰和歌集         なし      17.風雅和歌集 2首

4.後拾遺和歌集          3首      11.続古今和歌集         2首      18.新千載和歌集         1首

5.金葉和歌集  拾遺和歌集と重

複するので削除 12.続拾遺和歌集         なし      19.新拾遺和歌集         1首

6.詞花和歌集  1首      13.新後撰和歌集         なし      20.新後拾遺和歌集      1首

7.千載和歌集  2首      14.玉葉和歌集 6首      21.新続古今和歌集      1首

 これらの勅撰集のうち、源順が撰者の一人である、後撰和歌集に自分の歌を一首も撰ばなかったのは、その人柄をあらわしている。

(2)『拾遺抄』について

これは藤原公任の編集した歌集で、源順の歌が8首撰ばれている。そのうち7首までが勅撰集に収められているので、ここでは『源順集』にも記されていない残り1首を紹介する。

『拾遺抄』夏の歌五五、冷泉院の東宮におはしましける時、百首の歌を進じける中に、と題して

「花の色に染したもとのをしければ衣かへうき今日にもあるかな」

 この歌は、源順52歳での歌である。

(3)『源順集』について

この歌集は、298首の歌が収められているが、特に能登赴任に、かかわりのある歌のみについて、とりあげる。

同歌集の最後、297、298番の歌は、源順が能登国守として赴任する送別の歌で、前者は、一条大納言(藤原為光)家の人々におくる歌であり、後者は、左衛門佐(藤原誠信)におくる歌である。

「越の海にむれは居るとも都鳥みやこの方ぞ恋しかるべき」

「まつ人も 見えぬは 夏も白雪や なほふりしける 越のしらやま」

「神の座(ま)す気多のみやまき(深山木)しげ(繁)くとも わきて祈らむ君が千載を」

 この歌が源順の最後のもので、残念ながら能登に赴任してからの歌は見当たらない。つまり詠まなかったか、たとえ詠んだとしても世に発表しなかったのだろう。以上で源順の歌について叙述は終えるが、順の歌が広く知られなかったのは、多分小倉百人一首に撰ばれなかったからであろう(森下市郎氏評)。

 歌風だが、その表現は平淡ながらも言語遊戯的作品も多い。沓冠の歌、双六盤の歌、天地の歌など。康保3年(966)には異色の歌合せ『源順馬毛名歌合(うまのけなあわせ)』を催行。これは馬の毛の名を詠みこんでつがえた歌合わせも作っている。一方でその不遇からか無常を詠嘆する歌や自らの沈淪の境遇を述べた「五嘆吟幷序」「無尾牛歌」「夜行舎人鳥養有三歌」などのような歌もある。

 また著書には、漢詩作成の手引き用に漢詩を多数撰述した『作文大体』や、『新撰詩髄脳』という著書もあったようだ。

能登守に赴任してからの源順は、領内の巡行も行った形跡は皆無に等しく、70歳の高齢もあって、庁内の執務に専念したようである。順の在任中に手がけた事は、国守としての重要責務の一つである領内の巡拝が挙げられるが、古府総社の社伝によれば、能登国内の式内社43座の神を合祀して奉幣参拝の便宜をはかった事、今1つは、山王町の大地主(おおとこぬし)神社の再建があげられる他は、全く知られていない。今後の研究がまたれる。

『万葉の歌』の著者、山口博氏はいう。

「能登には万葉歌碑があるが、源順を知る人は少なく、従って記念碑も無い。私は七尾の海が見える丘に、『万葉学の祖、天暦の源順朝臣ここに没す』の碑を幻に見る。」と。

(参考文献)

『能登国守 源順朝臣』(「七尾の地方歴史)」の中の森下市郎氏の文章)、

「國史大辞典」(吉川弘文館)、世界大百科事典(平凡社)、「広辞苑」(岩波書店)ほか

『加能郷土辞彙』など

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