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御祓地区出身の文化人 ~藤澤清造~ 1/2

 小説家・劇作家・演劇評論家(1889~1932)

 生れたのは、明治22年(1889)で鹿島郡藤橋村。現在の七尾市馬出(まだし)町である。
 小丸山城址公園の近く、駅前から続く大通りに面した場所、GSのオガタの向かい側の川側の角の家の場所にあたる。明治34年、七尾尋常高等小学校男子尋常科第4学年を卒業。卒業後、七尾町内の活版印刷所に働き、新聞配達のし仕事に就くが、右足が骨髄炎に罹り手術を受け自宅療養。生涯、骨髄炎の後遺症に苦しめられる。

 彼は18歳の頃文筆家を志し、姉を頼って上京。伊藤銀月や中里介山の面識を得る。印刷屋、製本所、新聞配達、製綿所、沖仲士、弁護士書生などを様々な職業を経験したが、間もなく俳優を志望するも叶わず悶々としていた。

 やがて、同郷(馬出町)の作家志望の安野助多郎によって徳田秋声や室生犀星と知り合う。
 徳田秋声の紹介で三島霜川が編集主任をしていた演芸画報社に入社、訪問記者となり、10年間の演劇記者時代を送った。そして仕事をしながら、小山内薫に私淑し劇評も書いた。
 画報社を退社後は、小山内の紹介で松竹キネマやプラトン社に勤務するが長続きしなかった。

 大正11年(1922)大阪に移って書いた、友人・安野助太郎の悲惨な死をテーマとした長編小説「根津権現裏」の出版によって文壇に登場。

 ところでその安野だが、彼は金沢生まれで、若い頃は兄と一緒に七尾へ移住し兄は馬出町で理髪業をやり、弟は裁判所の給仕などをやっていた。藤沢とはその時知り合ったようだ。安野は上京後、弁護士の事務員書生などやっていた。

 この安野助太郎と藤沢清造と、それに室生犀星の3人は親しく東京でもよく交わったという。安野が亡くなったのは斉藤茂吉の脳病院の便所で縊死を遂げた変死だった。

 この事件を題材にして、藤沢は、「根津権現裏」を書いたのだが、その後は『新潮』『文芸春秋』『文芸往来』などに小説戯曲を発表。彼の作品は、もっぱら人間の醜悪な面、悲惨な面を描き続けた。晩年になるにつれて無政府主義的傾向が強くなっていったという。

 上記のように劇評や戯曲により一時は「演劇界」で活躍したが、寡作のために生活に困窮。
 貧乏にも関わらず頻繁に悪所通いなど生活は乱れ、昭和6年(1931)5月の『文芸春秋』で「此処にも皮肉がある」を最後に文筆を絶った。

 悪疾の精神障害(どうも悪所通いが原因らしい)をきたし、何度も失踪を繰り返したという。翌年の昭和7年1月29日、行き倒れとなって東京芝公園で凍死した。享年42歳(戒名は清光院春誉一道居士)。
 発見当初は手がかりがなく、行路病死人として扱われ火葬されたが、靴に打った本郷警察署の焼印が放送局の久保田万太郎氏の耳に入り、藤沢であると確認された。

( 2/2に続く)

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