御祓地区ゆかりの文化人 ~西田幾多郎~ 2/2
- 歴史・文化・景観
- 2021年10月3日
明治期~戦前の日本を代表する哲学者(1870年~1945年)
(1/2からの続き)
災難続きの幾多郎であったが、いいこともあった。それまで七尾で同居していた得田家の従妹、得田寿美(ことみ)と結婚した。寿美は幾太郎の母・寅三の妹貞の長女である。小さい時から仲が良かった。
幾多郎が寿美と新婚生活を始めたのは、七尾湊町の大乗寺の庫裏の一室であったという。
ただし新婚生活は、決して楽しいものではなかったようだ。二人の仲は良かったが、家と家との葛藤などあってその頃二人は、暗い苦しい生活を送っていたようだ。
が逆境を乗り超えんとする幾多郎は、不屈の闘志を燃やし、この年の5月から、幾多郎は「グリーン氏倫理哲学の大意」を『教育時論』に連載する。これは前年、就職に失敗してから暗い状態の中で、取り組んだトマス・ヒル・グリーン(1836-1883:イギリスの新ヘーゲル主義を代表する哲学者)の研究を開始し、取り組んでいたものをまとめた成果であった。
この頃の大志を表明した手紙が残っている(これまた前掲の手紙同様山本晁水宛の手紙)。
「有為の青年一地方に局促すべからず。余も昨年来は唯悒々(ただおうおう)として月日を送迎せしが、今夏大兄と話をして、大いに活気を得たり。人間五十活潑々地、行かんと欲する処にゆき、進まんと欲する処に進むべし。余が昨年来の引き込み思案は大に誤り居れり。蟄居して学問し(※3)三宅程になりたりとて、一つの(※4)Geizと同じく世に益なし。己の得たる丈は世に顕はし、世を進めざるべからず。是吾人の義務なり。
余は自揣(みずからはか)らず能登中学に終わるより一層大なることに奉ぜんと思ふ。始より小事に安んぜば一生成す所知るべきのみ。余は今大兄と話し居たる如く、明年は東都に出て大に独逸文学及び哲学を勉強し、今までの仙人主義をすてて務(つとめ)て世界の舞台に出んと思ふ。余は之を楽として勇気勃々勉強いたし居り候。」
「いかにしても東都に出で度(たく)存じ前に申上候如(もうしあげそうろうごと)く明年は再び書生をなさんとも考へ候が、其後(そのご)又熟ら考へ候に小生の如き係累多き身にして全く書生をなすこと誠に困難にて…この頃はいかがせんと日夜迷ひ居り候。…兼(かね)てこの世は唯にすぐさじと思ひ日夜苦慮罷(まか)りあり…」
※3:三宅雪嶺のこと。石川県出身の哲学者、文明評論家。著書に『真善美日本人』などがある。
※4:吝嗇(りんしょく)のこと。
七尾での一年の勤めの後、明治29年4月、幾太郎は七尾の分校主任を辞めて、四高講師として金沢へ戻る。
幾多郎が四高に戻ったのは、1つには学校が類焼して、再建が難しかったのもあるが、どうやら石川県の政争もからんでいたようだ。政争に巻き込まれた石川県尋常中学七尾分校は、その半年後には閉鎖されたそうだ。
最後に、もう一つ七尾時代の青年幾多郎のエピソード。
彼は、海が近い七尾のこと、毎日のように海辺へ出かけて白い波がしらに見入っていたという。下宿先の娘がある時、何を考えているのかを聞いたところ、「世界のことを考えている。世界というものは不思議なものだ」と答えたということだ。
じっと海を見つめながら、僻遠の地・七尾で、大志も忘れず孤高の精神で哲学への研究を深めていった幾多郎。
七尾の青少年にも、このような大志を抱いて、頑張って欲しいなあと思う。
(参考図書)
『祖父 西田幾太郎』(上田久・南窓社)
『西田幾多郎 人と思想』(下村寅太郎・東海大学出版会)他