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[シリーズ] 御祓のお宮さん、お寺さん No.10 改観寺

真宗大谷派 堀内山・改観寺

このシリーズの最終回は松本町ニノ52にある改観寺を採り上げます。

開基は藤原藤房の後裔の真言宗僧・乗観という者で、天文5年(1536)にもともとは城山(七尾城)の山麓に建立、「惠徳寺(けいとくじ)」と称したそうです。後に本願寺の蓮如に帰依し、阿弥陀如来像を蓮如(子の実如という話もあり)からもらい受け改宗したといいます。

 前田利家が能登入国以降、旧七尾城下を離れ、(何度か転居し途中で改観寺と改称)、慶安3年(1649)に現在地に至ったようです。『石川縣鹿島郡誌』などには佐味町付近に移った後、湊町(俗称・御坊町)に移った記述になってますが、絵図等も残る史料と比べると、そういう記述は見られず他の幾つかの真宗寺院の転居と混同された可能性が高いようです。ただ転居が数度あったのは事実のようで、当寺から加賀藩に提出した由緒などの資料には、加賀藩からの寺敷地用の拝領地が、元和2年(1616)と元和6年(1620)の検地による改めの際に転居させられているのが記録に残り、元和6年の検地時点で七尾新町(同年検地による新開地などの資料から阿良町の事を指す可能性大)にあったのが、最終的に現松本町の地に移転したようです。

 明治28年(1895)4月30日の大火で類焼するが、同31年本堂及び庫裏の再建に着手し、同33年6月竣工しました。開基乗観より当代・嶺藤進に至るまで21代に及ぶそうです。元々は違う姓であったようですが、明治の時代に嶺藤姓に改姓しています。

 先代住職・嶺藤亮(1914~90)氏は、真宗大谷派宗務総長(昭和49(1974)年~昭和55年)の地位にあり、いわゆる“大谷紛争”が激化した最も困難な時代に、紛争の解決に尽力化し、その後の正常化に多大な貢献をした人である。宗務総長辞任後に『わが炎の信と行 嶺藤亮聞き語り』を北國新聞に35回にわたりその活動が連載されたこともあるが、ここでは詳細省略させて頂きます。

 現在の建物は明治28年の大火以降のものだが、本堂前に立つ石灯籠2基は、安政4年6月吉日の刻文が確認できます。鐘楼の梵鐘は、大正十一年に鋳造されたものです。意外とその時代のものは戦時中に供出されて今は殆ど残っていないのですが、この鐘が残ったのは戦時中、他にひび割れた鐘がもう一つあり、そちらを代わりに供出し、この鐘の供出は免れたといいます。また庫裏には喚鐘(小型の梵鐘。法事などの開始を告げる時などに用いた)もありますが、それは元々は矢田村(現矢田町)の矢田神社境内に所存したと伝えられる真言宗明星館の釣鐘(鐘の刻印に摩尼山明星館院鐘とあり)です。明星館と当寺の関係は不明ですが、この改観寺も元々は真言宗系の寺であったというところから何かしらの理由で移譲されたと想像されます。

【参考】

『石川縣鹿島郡誌』(鹿島郡自治会編)、『図説 七尾の歴史と文化』(七尾市)

『新修 七尾市史8-寺社編』、『左同 5 町方編』(七尾市)、

『(旧)七尾市史 資料編第五巻』(七尾市)

北國新聞社『わが炎の信と行』(昭和55年8月6日~昭和56年4月8日に35回連載)他

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【改観寺】(参考に、原稿作成にあたって調べた資料もここでは掲載しておきます。)

字小島五十二番地に在り眞宗大谷派に属し別助音地なり。

開基は藤原藤房の後裔なる眞言僧乗観にして初め七尾湾の東方城山の麓に一宇を創建し惠徳寺と称す。後本願寺蓮如に帰依し阿弥陀如来の画像を直受して改宗す。画像は今も保存せられ後 佐味村付近に移り復た七尾湊町(俗称御坊町)に転じ改観寺と号す而(しか)して現地に移りしは慶安三年なり然るに明治二十八年四月三十日七尾町の大火災ありし際 類焼の災に遭ひ、同三十一年現存の本堂及庫裏の再建に着手し三十三年六月竣効す 開基乗観より当代慈観に至るまで十八世に及べり。

(↑『石川縣鹿島郡誌』後編第1章七尾町73頁の改観寺の項。一部漢字を当用漢字に改めた)

(↓執筆者(広報部会長)による口語拙訳)

(七尾町)字小島五十二番地に在り眞宗大谷派に属し別助音地である。(注:←別助音地は寺格をしめします)

開基は藤原藤房の後裔の真言宗僧・乗観という者で、もともとは城山(能登畠山氏の居城・七尾城があった山系)の山麓にあって「惠徳寺(けいとくじ)」と称したそうだ。

 後に本願寺蓮如に帰依し、阿弥陀如来像を蓮如より直接貰い受け改宗したという。

 その後、(七尾市)佐味町付近に移り、さらに湊町(俗称・御坊町といわれる辺り)に移り、そこで改観寺と寺の名を改称したという。 慶安3(1649)年に現在地に移る。

 明治28(1895)年4月30日の大火で類焼するが、同31年本堂及び庫裏の再建に着手し、同33年6月竣工。 

 開基乗観より当代慈観に至るまで18代に及ぶ。

改観寺の山号 → 堀内山 (嶺藤進住職に確認済)

「開基乗観より当代慈観に至るまで18代に及ぶ」に関して

 嶺藤慈観は現住職・嶺藤進の祖父(先代の嶺藤亮の父親であり、慈観までが18代なら現住職は20代目のはずだが、現住職は先代から自分が21代目に当たると言われており、この『石川縣鹿島郡誌』の記述と矛盾している。

 先代住職・嶺藤亮(1914~90)氏は、真宗大谷派宗務総長(昭和49(1974)年~昭和55)の地位にあり、いわゆる“大谷紛争”が激化した最も困難な時代に、紛争の解決に尽力化し、その後の正常化に多大な貢献をした人です。

かつて北國新聞が嶺藤亮氏の生前の頃30回以上にわたり、ちょっとした冊子ができるくらいのボリュームで特集を組んで人物像を紹介してるが、とても要約できる量ではないので、省略しました。

 本堂前に立つ石灯籠2基は、安政4年6月吉日の刻文が確認できます。

(参考)

嶺藤(ミネフジ)  日本姓氏語源辞典

石川県七尾市。「嶺」を含む姓、藤原姓あり。石川県七尾市松本町にある浄土真宗の改観寺の僧侶による明治新姓。同寺は藤原藤房の後裔が創建した恵徳寺から改称したと伝える。推定では鎌倉時代・南北朝時代の公卿である万里小路藤房の別名。万里小路マデノコウジ参照。藤原フジワラ参照。

103「寛延2年(1749年) 改観寺由来書上」

 (→『新修 七尾市史 寺社編8』-第3章寺院の整備と展開 P181-P182)

(後筆)「推算スレハ之ノ書付ハ寛延二也、」

   由来御尋ニ付申上候、

一、当寺開闢者、天文五年乗観与申坊主建立仕候、至当年弐百拾四年ニ罷成申候、

一、一通居屋敷 御免状 但道場拾壱ヶ寺成    

             一紙内三ヶ寺西方    

右者、従大納言様(前田利家)、能州御入国、本七尾御城下ニ居屋敷拝領仕御城当七尾江御引越罷相成候砌義拝領仕、其後、中納言様(前田利常)御代元和二年御検地ニ御改被為成如前々御免被為成、即御印折紙頂戴仕申候、

一、一通元和六年御検地御免状 但拾壱ヶ寺

               一紙内三ヶ寺西方 (←西方は・お西(本願寺派)の意味)

右、中納言様御在小松之砌、御印折紙御改ニ付、御奉行前田主膳・横山右近迄指上置申候、其上、慶安二年居屋敷七尾新町被召上、替地に小島村領之内、致拝領居住仕申候、

右、由来如此御座候、此外縁起・御寄進状・御書等無御座候、以上

                              (改観寺文書)   

(執筆者(広報部会長)による口語拙訳)

(後筆)「寛延2年(1749年) 改観寺由来書上」

「推算すればこの書付けは寛延2年(に書かれた書付け)なり」

 由来をお尋ねになられたのでお答え申し上げます」

  • 当寺の開闢者は、天文5年(1536)に乗観と申す坊主が建立しました。当年で(開闢以来)214年の経過となります。
  • 添付の一通の文書は、居屋敷に関する御免状 ただし道場は十一か所です。

                  一紙面内三ケ寺西方

右の文章は、従大納言様(前田利家)が、能登に入国の際に、本七尾城下(旧七尾城の城下)に居屋敷を拝領していたのを、お城が当七尾(新しい七尾・所口町)へお引越しになりました際(砌(みぎり))に、拝領する次第となりました。その後、中納言様(前田利常)の治世の元和2年(1616)御検地に前々の御免状によってなされたように御改めなされました。す御印付きの折紙(奉書紙などの二つ折りに折った公式文書類)を頂戴させて頂きました。

一、添付の一通の文書は、元和6年(1620)御検知に関する御免状 ただし十一ケ寺

                  一紙面内三ケ寺西方

右の文章は、中納言様(前田利常)が小松におられました際(砌(みぎり))に、御印付きの折紙を御改めるにつき、お奉行の前田主膳・横山右近まで指し上げ置きましたものです。その上で、慶安2年(1648)に居屋敷の七尾(町)の新町(阿良町)を召し上げられ、替地として小島村領の内に、居住地を拝領いたしました。

右の、由来はこの通りでございます。この他には縁起や御寄進状・御書などございません。以上

                                (改観寺文書)

貞享弐年(1685年)七月十九日 改観寺

 (→『七尾市史 資料編第五巻』 P211-P212 )

一、当寺開闢者、天文五年乗観与申建立仕候、至当年百五拾年ニ罷成申候。

一、一通居屋敷 御免状 但道場拾壱ヶ寺成

             一紙面内三ヶ寺西方

右者従大納言様(前田利家)能州御入国、本七尾御城下ニ居屋敷拝領仕、御城当七尾江御引越被為成候砌も拝領仕、其後、中納言様(前田利常)御代元和弐年御検地ニ御改被為成、如前々御免被為成、即 御印折紙頂戴仕申候、

一、一通元和六年御検地御免状 但拾壱ヶ寺

               一紙面内三ヶ寺西方

右弐通 中納言様御在小松之砌、御印折紙 御改二付、御奉行前田主膳・横山右近指上置申候。

其上慶安弐年居屋敷七尾新町※被召上、替地二小嶋村条之内致拝領居住仕申候。

        能登郡七尾東方浄土真宗

                改観寺

   貞享弐年七月十九日      賢秀

執筆者(広報部会長)による口語拙訳)

一、当寺の開闢者は、天文5年(1536)に乗観と申す坊主が建立しました。当年で(開闢以来)150年の経過となります。

一、添付の一通の文書は、居屋敷に関する御免状 ただし道場は十一ケ寺です。

                  一紙面内三ケ寺西方

右の文章は、従大納言様(前田利家)が、能登に入国の際に、本七尾城下(旧七尾城の城下)に居屋敷を拝領していたのを、お城が当七尾(新しい七尾・所口町)へお引越しになりました際(砌(みぎり))にも拝領し、その後、中納言様(前田利常)の治世の元和2年(1616)御検地に御改めなされ、前々の時のようになられ、すぐ御印付きの折紙(奉書紙などの二つ折りに折った公式文書類)を頂戴させて頂きました。  一、              添付の一通の文書は、元和6年(1620)御検知に関する御免状 ただし十一ケ寺

                  一紙面内三ケ寺西方

右の文章は、中納言様(前田利常)が小松におられました際(砌(みぎり))に、御印付きの折紙を御改めるにつき、お奉行の前田主膳・横山右近まで指し上げ置きましたものです。その上で、慶安2年(1648)に居屋敷の七尾(町)の新町(阿良町)を召し上げられ、替地として小島村条の内に、居住地を拝領いたしました。

能登郡七尾東方浄土真宗

                改観寺

   貞享弐年七月十九日      賢秀

※新町=現・阿良町の可能性大との市史編纂室委員の見解

2「慶安2年(1649年)十二月 所口幷府中町屋敷検地打渡帳」

 (→『新修 七尾市史5 町方編』-第3章所口町 第四節 屋敷移動 P258 )

      能州鹿島之所口幷二府中町両町屋敷御検地図帳事

合三百五石六斗弐升五合   打立

 内

 弐百九拾壱石       先高 但、元和弐年御検地図帳面

 拾四石六斗弐升五合    出分

 外

一、弐石弐斗弐升五合    一本杉町屋うら元和六年新開 ※2

 内

 壱石壱斗五升       当年ゟ 手上※3

  • 右江川道除之打渡処、如件

  慶安弐年十二十一日     山下吉兵衛  判

                山口弥五兵衛 同

                三橋勘兵衛  同

                所口町

                府中町

                 惣肝煎中

                 〔石崎町 山崎家文書〕

(※2は、改観寺から加賀藩に出した由緒書きの元和2年の検地の記録と符合する)

(※3「ゟ」は踊り文字(古文に出てくる特殊文字の1種)で「より」と読む)

鐘楼の梵鐘に書かれた文字

 「石川縣鹿島郡七尾町字常盤町

寄進人

佐波喜三郎

  大正十一年四月」

 「京都東六條

  (ヤマヨ(逆Vの字の下にヨのマーク))小堀仏具店鋳」

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